坂 田 育 英 会
Sakata Scholarship Foundation
設立経緯
設立経緯
設立時の坂田育英会の定款には「この法人は、福岡県内居住者の子弟にして高等学校卒業者の内、優秀な
学生で、経済的理由により大学、大学院の修学困難な学生に対し奨学金を給付し、修学を助け、もって社
会有用の人材を育成することを目的とする。」と謳われている。創設者の坂田九十百(さかた つくも)
は豪放磊落な人物として世に知られ「筑豊のドン」、「最後の川筋頭領」などの称号と共に、一地方都市
の市長が国を相手に大喧嘩を仕掛けたと話題になった在日朝鮮人国籍書き換え問題などで世の注目を集め
た名物市長であった。
坂田九十百自身は小学校卒業の学歴しかなく、炭鉱地域での荒くれ仕事を渡り歩きながらヤクザに成りき
れず市長になってしまったと言う一風変わった経歴の持ち主でもある(参考文献1)。しかし、市長に
なっての坂田は深い郷土愛に目覚め、閉山ラッシュで奈落の底に沈み込んでいくような田川市や筑豊地区を強引とも言われたつよい実行力で牽引し、何はともあれ市民のためにと飛び回る活躍を見せた。その当時の田川市の経済状況は破綻寸前で、北海道夕張市と同じようにいずれ経済倒産するのは確実な自治体に他ならなかった。しかし、持ち前のユーモアと人懐っこい笑顔で中央の官僚から県職員などとも良好な関係を築き、その人脈を用いて数々
の難問を乗り越えていき田川市を破綻から救った。前ページの「坂田九十百氏顕彰像」はその
功績を称え有志の寄付により建立されたものであり、同時に田川市の初めての名誉市民となっ
ている。(参考文献2)
しかし、種々の立場の人と接触が増えるにつれ小学校しか出ていないと言う学歴は坂田の唯一
のコンプレックスであった。また市民の経済状況が厳しいことは重々承知をしており、そのた
めに進学を諦める若者たちが沢山いることも憂いていた。一方、坂田は金銭への執着が薄く、
後藤寺本町にあった自宅も市長になる前からの芸者置屋を料亭に改築したままのものに最後ま
で住んでいた。その様な坂田が6期目で24年間勤めた市長職を退くことを決めた時には退職
金と功労金を合わせた5300万円が支給されることとなった。しかし坂田は退職する前年に
長男である坂田富士哉を理事長として設立した坂田育英会に、あっさりと全額を寄付してしま
った。長男や長女の熊手テルヨが出資した設立基金と坂田の退職金、後に妻坂田スミノが寄付
を加えた総額一億円を原資として坂田育英会は奨学金支給事業を運営することとなった。
順調に滑り出した奨学金支給事業であったが、支給奨学金は原資の運用益を資金としていたた
め年々減少する利息により次第に資金不足となり、支給対象学生数を減らさなければならない
ようになり、年度によっては奨学生募集を中止せざるを得ない状況となった。
平成23年度に当時の理事長の坂田二郎より運営を任された、現在の理事長と理事会はこの厳
しい運営状況に直面し、同時に法人法改正による新法人移行に対峙することとなった。新法人
移行にあたっては法に則って組織を改編し、公益法人か一般法人に移行し再登記する必要があ
った。それには移行のための費用が発生し同時に監督官庁との多岐にわたる折衝と認可を受け
るための組織改革が必要であり、
これを乗り越えることが出来な
ければ解散せざるを得ない事態であった。理事・監事などの役員
の意見を聞きながら出した結論は永久的に活動を続けることが義
務づけられた公益法人移行を止め、原資を切り崩しながら事業を
継続し原資が底をついたところで法人解散を行う一般財団法人へ
の移行を行うというものであった。同時に、30年前より据え置
いていた支給月額1万円は現在では経済的補助としては少ないの
ではとの思いで、月額2万円に増額した。また、より一層坂田の
意思を具現化するため募集対象者を福岡県在住者より筑豊地区在
住者へとの変更を行った。
今後、新体制発足時の試算では原資を使い果たすのは約19年後
となり、奨学生募集はあと16年で終了となる予定である。
参考文献1 「最後の川筋頭領 坂田九十百伝」 宮田 昭著 1987. 7 発行 葦書房
参考文献2 「炭鉱最後の田川市長 坂田九十百という男」 宮田 昭著 1009. 9 発行 書肆侃侃房
現在の運営体制
理事長 熊手 宗隆
理事
古舘 政次 塚本 周洋 森脇 純子
監事
中島 征四郎
評議員
北川 利明 熊手 茂彦 上田 順一